あくてぃばぶろぐ

最初の目標はあっさり捨てました。楽しんでもらえたら幸いです。

アクティブラーニングという幻想

アクティブラーニングという言葉をご存じでしょうか。

アクティブ(能動的な)ラーニング(学修)。

「能動的」というのは、簡単に言うと「誰かからやらされているのではなく、自ら進んで」という意味ですから、

 

「自ら進んで、学ぶこと」

 

という、すごーく当たり前のことを横文字で言っています。

すごーく当たり前のことを、なぜこんなに言わなければならないかというと、これが当たり前ではないからです。

 

高校までで生徒は、「ぼーっと座ってたら先生が教室にやってきて、なんか喋って黒板に書いていく。それをぼーっと写せば(コピーすれば、あるいはスマホで撮影すれば)、テストに答えられる」ということを、もちろん対応の仕方に差があるとは思いますが、体得してしまいます。

 

この、「ぼーっとしていたら」という態度を「受動的」と言います。「受動的」というのは、「自らは何もせずに、他人から影響を与えられて」という意味ですね。つまり、彼らは「自分たちは何もしなくても、先生が色んなことをしてくれる」という環境に慣れてしまって大学に入学するのです。

 

このノリで大学に入った生徒たちが学生になって、「先生が何もしてくれない」とクレームを言うものだから、先生たちは授業の準備をやりまくる。具体的には大量の資料のコピー、パワーポイントの準備、そして、最大の手間は「シラバスの作成」です。

 

シラバスとは、最初の授業から最後の授業まで、何をどのように教えるか、そしてその授業を受けた学生はどのような能力を身につけることになるか、そしてその能力はどのような方法で評価されるか、を書いた教師と学生との契約書のようなものだと言われます。

 

このシラバスには様々な問題がありますが、アクティブラーニングという観点から見れば、先生は、学生の顔を見る半年以上も前から、どんな学生が座っているかを想像して、1回目から15回目の授業でやることを事細かく計画しなければならない、ということです。これが全く「能動的」ではないことはすぐにお分かりになると思います。そこには、本来主役であるはずの学生は存在しないのですから。

 

それなのに、シラバスには「アクティブラーニングのための工夫、活動」を明記せよという欄があります。そこで書くことは「グループディスカッションを行う」とか、「学生は発表をする」とかです(これもすごくて、大学側から「主語は「学生は」であること」という指示があります。すでにこの段階で先生も能動的にシラバスを書いているのではないことが分かりますね)。これもよく考えてみると、「先生が、グループディスカッションを行わせる」ということで、結局これは学生にとっては「受動的に、能動的な活動を行わせられる」ということになります。「受動的に、能動的な活動?」、明らかに矛盾しています。このことを、リンクの記事は指摘しています。

 

そして、本当のアクティブラーニングのために先生ができることは何かということを提案しています。その内容は、いまの社会の通年から見るとかなり強引で、ややもすると問題になりそうなことですが、よく考えてみればこれは当を得ている方法ではないかと思われます。

 

教育関係の方、特に中学校や高校で教えておられる先生方、または生徒さんたちは一読をお勧めします。

 

 

univ-journal.jp